横浜青葉(旧緑中央)リトルのプロフィール

マイリー君 創  立           1971年【昭和46】

チーム名称         「横浜青葉レッドソックス」(旧緑中央レッドソックス)

シンボルキャラクター    「マイリーくん」
        <名付の由来>
         マイナーとリトルとの合成語
        <イメージ>
        明るく楽しく、元気でやんちゃな、リトルリーガー

卒団選手          41期398名(2012年8月現在)
卒団選手          42期408名(2013年8月現在)

主な戦績

	全日本大会           5回出場・準優勝1回(95年)第3位1回(13年)
全国選抜大会          6回出場・3位2回(90・07年)
東日本大会           1回出場
関東大会(秋)         9回出場・優勝3回(95・98・08年)
関東大会(春)         9回出場・優勝2回(94・95年)
県大会(秋)          優勝4回(90・94・95・98年)
県大会(春)          優勝7回(90・93・94・95・96・99・09年)
全日本大会県予選        優勝4回(93・95・03・13年)
全国選抜大会県予選       優勝2回(98・07年)
県大会(夏)          優勝6回(93・95・97・03・05・13年)



「選手の思い出の作品」の紹介

   その1  作品名 「タッチアウト」
        1993年第43回学生美術の祭典入選
        作者  90年卒団 中里広太郎(当時小4年生)

中里広太朗の作品


   その2  作文 題名 「補欠」
        作者 89年卒団 村山 晋平(当時小6年生)

 ぼくが野球を習い始めたのは、ちょうど四年生の夏の大会が終わったころだった。 もうそのときには、しっかりレギュラーも決まっていて、ぼくのレギュラーへの道は 遠かった。
 けれども僕は、野球が好きだった。冬の寒くて手が、ちぎれそうな時も、夏の暑くて 身体がとけてしまいそうな時でも僕は、仲間と頑張った。
 もともと僕は見かげによらず風邪をひきやすく、風邪からぜんそくをひき起こす体質だ った。それが野球をやり始めて少しずつ少しずつ体が、丈夫になりぜんそくの回数 も少なくなった。
 これだけでも僕は、ずい分野球をやり始めてよかったと思っていた。
 そこに坂本君や佐道君という僕と同期の補欠仲間ができ僕らはいつも「忍」の一字で 頑張ってきたと思う。
 去年くれの始めのころだった。僕は中学受験をしたくなり塾のテストを受けた結果、 塾の先生は、土、日も塾で勉強に当てないと希望校には入れないと言われた。 僕は受験も野球も両方やりたかった。
 僕は初めて大きな問題で悩んだと思う。
 結局 僕は野球をやめることは出来なかった。レギュラーでもないけど、これまで一 緒に頑張って来た仲間と別れ受験勉強を選ぶ気には、とてもなれなかった。
 今年の夏休みに、お父さん、お母さんからカナダへ体験旅行をする様にすすめられた。 僕には最高にうれしい話のはずだった。
 けれどもなぜか心は、はずまなかった。
 それは、夏の大会と重なってしまったからだ。
 僕は中学受験もあきらめて、野球を選んだのに今年の夏の大会に出られないとしたら 何のために、あきらめたのか意味がなくなるからだ。
 多分 夏の大会だって、なかなか上達しない僕のプレーだもの出場することはないと 思う。それでもやはり補欠としての僕の役目だってある。それと僕と一緒に頑張っ て来た仲間のかつやくを絶対に見ないわけにはいかない。
 僕はよだれの出そうなカナダをあきらめた。

 こんなこと書いていると僕にとっての野球って何だろうとフト思う。
 僕はきちんとした答えは、出さないけどきっと野球というチームプレーのせいだと思 う。一人一人が自分のことだけわがままであったら、一人では、いくら力があっても 野球プレーは出来ない。それが、一人一人の力が合って初めて野球プレーができると 思う。
 僕は野球を通して、仲間というものをすごく意識する様になったと思う。助けたり、 助けられたり僕の続くエラーの時には先輩が一生けん命練習をつけてくれ、はげま してくれた。それに、僕が初ヒットを打った時、皆が大喜びしてくれて僕以上に喜 んでくれたみたいだった。僕は、感激で胸がいっぱいだった。これから僕は、ど んな人生とやっていくのか自分でもわからない。だけど、二年間補欠で頑張った僕 の経験は、きっとどこかに生きてくると思う。

緑中央レッドソックス リトル創立25周年誌より抜粋
2012年10月20日 一部追加・修正